醜さを誇る鬼のように走れ これを絶対絶命と言う
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これを絶体絶命と言う、の、その4

男の部屋にあったサンダルはアタシの心を乱した。貧相で小さな安物。古びて汚れたサンダル。男の大きな足は到底包みそうもないそれは男とかつて暮らした女のものと容易に想像できた。サンダルに収まっていた足の持ち主の女はサンダルと同じように貧相で小さくて古びて汚れていたのだろうか。今アタシはサンダルを見つめ、昨日食べたまろんプリンの容器をもしさかさまに倒し、中身を床に落としてそしてそれを踏んでしまったら、どう思うか、サンダルを見ながら考えてみる。もし、そうしたら、美味しい、マロン プリンは食べられなく、なるのよ。
日曜日の朝、男はだらしなく眠る。朝の陽ざしに髭が美しいのを覗く。アタシが愛しているのは、この男では無くて、この男がアタシに与える安寧ではなかったのか。安寧だけが取り柄の関係なら、サンダルなど、取るに足らないことではないのか。アタシが求める安寧はサンダルに操作されるものだったのか。安寧の甘さには毒が潜んでいたのか。その毒が今、アタシを苦しめているのか。それともサンダルの女と自分が、両方とも毒だから、同じだから、苦しいのか。
安寧を形作る、男との完璧な夜は、きっとサンダルの女の、おかげなのだろう。
過去がどうだからどうだと言うのだろう。そんなことはどうでもいいのだろう。今、ここに男が眠る。それでいいのだろう。
いや、いいのだろうか。
サンダルの女に、男は、何をどうされたのだろう。そして男はサンダルの女に何をしたのだろう。
アタシはたまらなくなって、部屋のタンスや引き出しを探りだした。自分を笑いながら。大きな声で笑いながら。下品な声で笑いながら。男の衣類や鞄、くだらない取扱い説明書やDM、不味くて高いピザのチラシ、あさってひるがえし、女を探す。そこに女の痕跡を探す。愛された女の顔を探す。知りたくてたまらない。どんな女?髪の長さはどれくらい?身長と体重は?靴のサイズは?おっぱいの大きさは?足首とウエストはどんなふうにしまってて、どんなふうに緩んでいるの?どんな化粧品を使っていて、どんなパンツを履いているの?そして?どんなふうに抱き合ったの?
そして、床に男の財布をみつける。ああ、アタシが3万円抜いた財布。そうだ、財布。何かがみつかりそうに思い、確かめてみると、中には安易なポイントカードばかりで、さらに見ると、中には、札はなくて、じゃり銭ばかりで。
ああ、アタシが3万円抜いたから、そしてその後、お弁当屋さんでお弁当を買って、コンビニで煙草とまろんプリンを買ったから、もう、小銭しかないのだな。ないのだな。
優雅に眠る男の幼稚な顔を見て、アタシは完全にやられてしまった。それは、アタシの焦りだけから来るものかもしれない、アタシの羞恥心だけから来るものかもしれない、または虚栄心?多分それらの全て。
アタシは、この男を独占したくなっている。それは悪。どうしても出来もしないことだから。誰かが誰かを独占するなんて、出来ることなの?でも、過去も未来も、この男のすべてを知り、支配したいの。独占したいの。
安寧と引き換えのこの毒。愛すべきは毒。毒に飲まれてどうしたらいいか、アタシは絶対絶命で、解毒剤のような顔の男を見つめてみる。



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これを絶体絶命と言う、の、その3

「明日、俺、仕事休みなんだよ」
唐突に男が言う。
「だから何?」
無愛想に答えたアタシの顔を、男はにやりと覗き込んで
「どっか、出かけない?」
アタシは驚いて、問う。
「出かけたいの?」
「うん。出かけたい」
「どこへ行きたいの?」
「君の行きたいところ」
「アタシはどこにも行きたくないけれど」
「そっか、じゃあ、いいや」
諦めの良い男だ。あきらめが良いと、何故だか罪悪感が湧いてくる。これは結構なストレスで、男の顔を、ついしげしげと睨みつけてしまう。すると、男はアタシにキスをした。この人は、では明日、ずっとこの3LDKのアパートにいて、何をするわけでもなく、アタシの顔色ばかりうかがって、時折、アタシの足の指をなでたり、頭を抱きしめたり、キスしたり、するのだろうか。そうだ、この男はそうやって、全てを受け入れる性質がある。掃除もせず、言われなければ風呂にも入らず、トイレットペーパーが無くなっても替りをセットせず、ただ飼い猫のように丸く眠り、気まぐれで起きて、意味不明な鳴き声を出すアタシを受け入れる。
「俺、煙草が吸いたいよ」
男はよく煙草を吸っている。アタシもよく吸っている。白くて青い煙は狭い部屋を舞い、互いの顔を遮断し、それはまるで、雲の上にいるようで、アタシと男は顔を前後左右に動かして、ふふふと笑う。でも今、ここに煙草は無いな。
「あ、切れてるよ」
アタシが無表情に言うと、男は
「コンビニで今買ってくるよ。他に何かいるものある?」
「アタシ、アタシね、テレビのCMでやってた、まろんプリンが食べたいよ」
「え?俺、それ何だかわかんないよ。そんなんやってたっけ?」
「秋だけ限定のだよ。198円だよ」
「間違って買ってくると悪いから、一緒に行ってよ」
「え!いやだ」
アタシは、昼間に生理用品を買いに行った際に見た、店員の不審な目を思い出していた。
「散歩しよう」
その言葉はアタシのすべてを崩した。散歩ってなに?散歩というのは、必ず戻ることを前提にしたお出かけだ。そう、必ず、戻るということ。
アタシは、静かに、泣いた。涙は目じりの皺をつたって床に落ち、鼻水が唇に届いて、口の中に入った。男は驚いて
「ごめん、何か悪いこと言った?」
と言ったけれど、すぐに少し微笑んで、アタシの背中をなで、そのままにしておいてくれた。こんなふうに、アタシの機嫌で男を翻弄し、アタシはなにに復讐しているのだろうかと思う。復讐すべきは愛する男ではないのに。復讐?泣いたのは復讐?違うよ、嬉しかっただけ。
「アタシ、コンビニに行くよ。でもちょっと待って。着替えるよ。顔も洗うよ」
「うん」
「あ、でも、着替えがないよ」
「うん」
「何か貸してよ」
「じゃあ、Tシャツと短パン、適当に選んでよ」
アタシは、まるで結婚式の衣装を選ぶように慎重に選んだ。男の数少ない衣類。粗末な衣類。何度も着られ、男の匂いが染みついた衣類。それはアタシには少し大きくて、アタシの自尊心を形良く整えてくれた。
着替えて、粗末なカビだらけの玄関ドアを開けると、大粒の雨が降っていて、男は傘を取り出して広げ、アタシと一緒に使うつもりか、アタシを引き寄せた。二人で一つの傘に入った。比喩が浮かばないほどのこの安堵感に実は悲愴な毒が含まれている気がして、でも、それを自分は望むような気がして、そして大雨で、サンダル履きのアタシの足は濡れ、そうだ、この女物のサンダルは、アタシがここに居ついたときにはもうあったと気が付き、ああやっぱりと思うと、もう、コンビニのまろんプリンだけを考えている。アタシはきっと絶体絶命の瀬戸際にいる。まだ。




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これを絶対絶命と言う、の、その2

鍵を差し込みガシャガシャと金属音を派手に響かせ、錆びた玄関ドアを大げさに開けて、男は帰ってきた。
「弁当を買ってきたけれど食べる?」
そういうと、ネクタイを緩めて、畳にごろ寝しているアタシの顔を覗き込んだ。笑っている。男はアタシの顔を見て笑っている。一日中寝てばかりで昼も夜もあまり区別がつかない、それでいて特に若いというわけでもなく、顔が綺麗というわけでもなく、最終のどどめは会話の気が利いているというわけでもないアタシに、男は笑うのだ。なにか面白いのか、と不思議に思う。
「なにか面白いの?」
アタシが言うと、男は返事をした。
「A子がいると面白いよ」
そうなのか、アタシがいると面白いんだな。面白いというのは、良いことなんだろう。
男は、ダイニングテーブルの上に揚げ物だらけの弁当を乗せ、
「一緒に食べようよ」
と言った。
醤油のシミがこびりついた古いダイニングテーブルの上には、古新聞や各種DMやテレビのリモコンや昨日食べたアイスクリームカップの蓋なんかが乗っている。隅に寄せると、ほんの少し空間ができた。
そうか、一緒に食べるんだね。そうだよね、一緒に暮らしているんだもの。
男はアタシに割り箸をくれた。そして弁当の蓋を開けた。ふたつぶん。ふたりぶん。男のお弁当の蓋と、アタシのお弁当の蓋を。
それから、小さなビニールの袋に入ったソースを取りだして器用に隅を切り取り、中のエビフライにソースをかけた。これも、男のお弁当のとアタシのお弁当の。ふたつぶん。ふたりぶん。

男はいつも地味なスーツに地味なネクタイをしてサムソナイトの鞄を持って、朝に出かけて行き、夜に食料を持って帰ってくる。アタシはただこの部屋にいるだけ。
男に促されれば、いつ磨いたかわからない歯で弁当を食べ、脱がされれば男と裸になり寝て、連れていかれれば風呂場で体を洗われる。ただ、流される。なんという心地よさか。

何も考えない。ただスナフキンのようにふらりとここに来たアタシ。ムーミンママのパンケーキより、男の買ってくる弁当のほうがおいしいように思った。ただ、アタシの横で咀嚼する男。このままいつまでもこの生活が続けばいい。明日の事も昨日のことも考えない、ただ、今だけのこの瞬間に生きて、それで終わり。

ああでも、思うようにはいかないもので、アタシはそうだ、生理になってしまったのだった。今朝。股から流れる血液を生理用品で抑えなければとなったのだ。アタシは替えのパンツも持っていなくて、いつもは男のボクサーパンツを借りて履いたりしていたのだが、男のボクサーパンツに女の生理用品をくっつけるのは大変そうで、これはもう何とかしなければならないと思った。だから、コンビニに行って、必要なものを買おうと決めた。アタシは、男が朝の髭剃りをしているうちに、こっそりと財布から金を抜いた。薄い財布には3万2000円くらいが入っていて、アタシはそのうちの3万円を抜いた。男は気が付いたのか気が付かないのか、わからないままいつものように出かけ、アタシはいつものように残された。股にティッシュをはさんだ状態で、アタシは鍵もかけずに男の部屋を出て、コンビニを探し、女物の生理用パンツと生理用品を買った。1680円だったから、金は余った。これをどうしようかと思った。

男と暮らして初めて迷ったことで、不快だった。何かを決断しなければならないのは不快だ。気分が悪い。男の部屋に戻って、買ってきたものを使って、残りのお金を見た時、軽い財布に驚く男の様子を想像し、同時に、何かが起こるかもしれない予感に気味が悪い自分が可哀そう思った。

そして今、男はアタシを見て笑っている。財布に入っているお金が、少なくなっていることに、気が付かなかったんだろうか。わからない。もしかしたら、アタシがお金を抜いたこと、あれは夢?アタシの股のナプキン。それも夢?アタシがオンナだということ、それも夢?

男が笑うのでアタシも笑って、弁当を食べたら、しみじみ、アタシはこの男を好きだと思った。たるんだ胸に生える胸毛を思って、好きだと思った。人を好きになることは、絶対絶命につながると思って、アタシはあせった。




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これを絶体絶命と言う

ジリジリ凍りつくアタシと歌ったアイドル歌手は誰だったか、どうしても思い出せない。どうしても思い出せないのはなぜか。思い出したいのか。歌って踊って喝采を浴びる歌手。一挙手一投足を覗かれてあれこれ思案される。それは誰か。それはジリジリと凍りついているのか。
私は違うのか。何と違うのか。

私は一人、男の住まいにいて、それは古い3LDKで、男は仕事に出ていて、誰からものぞかれず、更には、壁にかかる室温計は28度を指し、とても私を凍らせるとは思えない。見られないことは私を自由にし、同時に弛緩させる。時間も、時間に伴う食事も、食事に伴う排泄も、排泄に伴うリズム感も、何もかも忘れて、忘れるからこそ、わしづかみに自分を感じられる。ほかの何物からも拘束されない自分を。

ただ、同居する男は、昼間勤務するサラリーマンらしく、朝出かけて、夜帰ってくるから、気配は感じる。いや、気配だけの時もあれば、そびえたつこともある。私が彼を眠らずに認知するときもあるということ。一緒に食事をしたり、一緒に会話したり、一緒に風呂に入るときもある。
いることを気が付いたり気が付かなかったりする。それだけのこと。

この部屋には大きな窓がある。小さなベランダに続くそれは、大きな空を映す。高台に建つこのマンションは、視界を遮るものがなにもない。ええ、たまたまね。
男が置いていったマイルドセブンを一本指にはさみ、100円ライターで火を点ける。青い白い、その空のような煙が、部屋と私の肺を汚すと、くらくらと眩暈がした。

私は今、どんな格好をしているのだろうか。髪はひどく乱れていないだろうか。鏡を見たのはいつのことだったろうか。そもそも鏡なんて、この3LDKにはあるのだろうか。3LDKにある貧相な家具類、そうたとえば、安物のタンスやダイニングテーブル、冷蔵庫やレンジ、そんな物体たちのミテクレと、私の恰好、どっちがどうで、だからどうだというのか。
吸い込んでは吐き、吸い込んでは吐き、規則的にかつ速度早く、すると、あっという間に、フィルター近くまでに煙草は短くなって、私はそこにあるアルミの灰皿にもみ消した。
また眠ろうと思ったが、散々眠ってばかりいるので、眠れないようにも思える。試してみようかと思ったけれど、腹が減っていることに気が付いて、やめた。
薄汚れた畳と大きな押入が陣取る6畳の和室のすぐ隣にある台所は、何年もの間に厚くなった油汚れのタイル壁のシンクがあり、大きな音を立てる冷蔵庫があり、実用本位なデパートの景品だらけの食器棚があり、4人がけのテーブルがある。

遠慮なく冷蔵庫を開けると、腐った牛乳の匂いがした。そこの下のホウレンソウは、溶けている。食べたら、どうなるだろう。マヨネーズとチューブのワサビはあるが、マヨネーズとワサビだけを吸い込むのは、不味そうだ。やってみるのはやめる。シンク脇に放置された花柄の炊飯器でご飯を炊いたら、さぞ良い匂いがするだろう。ただ、米がなければご飯は炊けない。コメを探す。コメ、コメ、ああ、あるわけがない。あきらめて、また、マイルドセブン。そしてそれは、最後の一本。これを絶対絶命と言う。



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