醜さを誇る鬼のように走れ これを絶体絶命と言う、の、その3
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これを絶体絶命と言う、の、その3

「明日、俺、仕事休みなんだよ」
唐突に男が言う。
「だから何?」
無愛想に答えたアタシの顔を、男はにやりと覗き込んで
「どっか、出かけない?」
アタシは驚いて、問う。
「出かけたいの?」
「うん。出かけたい」
「どこへ行きたいの?」
「君の行きたいところ」
「アタシはどこにも行きたくないけれど」
「そっか、じゃあ、いいや」
諦めの良い男だ。あきらめが良いと、何故だか罪悪感が湧いてくる。これは結構なストレスで、男の顔を、ついしげしげと睨みつけてしまう。すると、男はアタシにキスをした。この人は、では明日、ずっとこの3LDKのアパートにいて、何をするわけでもなく、アタシの顔色ばかりうかがって、時折、アタシの足の指をなでたり、頭を抱きしめたり、キスしたり、するのだろうか。そうだ、この男はそうやって、全てを受け入れる性質がある。掃除もせず、言われなければ風呂にも入らず、トイレットペーパーが無くなっても替りをセットせず、ただ飼い猫のように丸く眠り、気まぐれで起きて、意味不明な鳴き声を出すアタシを受け入れる。
「俺、煙草が吸いたいよ」
男はよく煙草を吸っている。アタシもよく吸っている。白くて青い煙は狭い部屋を舞い、互いの顔を遮断し、それはまるで、雲の上にいるようで、アタシと男は顔を前後左右に動かして、ふふふと笑う。でも今、ここに煙草は無いな。
「あ、切れてるよ」
アタシが無表情に言うと、男は
「コンビニで今買ってくるよ。他に何かいるものある?」
「アタシ、アタシね、テレビのCMでやってた、まろんプリンが食べたいよ」
「え?俺、それ何だかわかんないよ。そんなんやってたっけ?」
「秋だけ限定のだよ。198円だよ」
「間違って買ってくると悪いから、一緒に行ってよ」
「え!いやだ」
アタシは、昼間に生理用品を買いに行った際に見た、店員の不審な目を思い出していた。
「散歩しよう」
その言葉はアタシのすべてを崩した。散歩ってなに?散歩というのは、必ず戻ることを前提にしたお出かけだ。そう、必ず、戻るということ。
アタシは、静かに、泣いた。涙は目じりの皺をつたって床に落ち、鼻水が唇に届いて、口の中に入った。男は驚いて
「ごめん、何か悪いこと言った?」
と言ったけれど、すぐに少し微笑んで、アタシの背中をなで、そのままにしておいてくれた。こんなふうに、アタシの機嫌で男を翻弄し、アタシはなにに復讐しているのだろうかと思う。復讐すべきは愛する男ではないのに。復讐?泣いたのは復讐?違うよ、嬉しかっただけ。
「アタシ、コンビニに行くよ。でもちょっと待って。着替えるよ。顔も洗うよ」
「うん」
「あ、でも、着替えがないよ」
「うん」
「何か貸してよ」
「じゃあ、Tシャツと短パン、適当に選んでよ」
アタシは、まるで結婚式の衣装を選ぶように慎重に選んだ。男の数少ない衣類。粗末な衣類。何度も着られ、男の匂いが染みついた衣類。それはアタシには少し大きくて、アタシの自尊心を形良く整えてくれた。
着替えて、粗末なカビだらけの玄関ドアを開けると、大粒の雨が降っていて、男は傘を取り出して広げ、アタシと一緒に使うつもりか、アタシを引き寄せた。二人で一つの傘に入った。比喩が浮かばないほどのこの安堵感に実は悲愴な毒が含まれている気がして、でも、それを自分は望むような気がして、そして大雨で、サンダル履きのアタシの足は濡れ、そうだ、この女物のサンダルは、アタシがここに居ついたときにはもうあったと気が付き、ああやっぱりと思うと、もう、コンビニのまろんプリンだけを考えている。アタシはきっと絶体絶命の瀬戸際にいる。まだ。




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